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歴史的ロマンを感じさせる明智光秀=天海説 信憑性は高い?単なる都市伝説?

松尾芭蕉が服部半蔵など歴史上の人物が入れ替わって生存していたという説は、日本史が好きな人以外でも惹きつけられる話です。そのなかでも本能寺の変を起こし信長を討った明智光秀が側近として江戸の発展に関与した南光坊天海だったという説は今なお論争が繰り広げられるほどです。これは単なる都市伝説とは思えませんね。

更新日: 2019年09月11日

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egawomsieteさん

■明智光秀が生きていたという証拠

山崎の合戦で敗走中に落ち武者狩りの農民に竹やりで重症を負わされて切腹したと伝わる明智光秀。家来の溝尾庄兵衛に介錯をたのみ切腹した後、京の知恩院近くに首が埋められたという塚があります。

通説では、首が埋められた翌日に農民により掘り出されて豊臣秀吉の元に届けられ、本能寺にて光秀の首はさらされました。しかし、腐敗が酷く明智光秀と見分けがつかなかったとも云われております。

・あまりにも無策だった本能寺の変

織田信長の重臣では、一番の智将と知られた明智光秀が、本能寺後の計画があまりにも無策であったように思います。主君信長を討った後、豊臣秀吉、柴田勝家、徳川家康など、信長の家臣や有力大名との武力衝突が起こるのは、目に見えていたはずなのに、秀吉と戦った山崎合戦では、自前の兵力1万3千のみで戦っています。

光秀の娘婿の細川忠興、盟友の筒井順慶に本能寺の変後に、味方するよう伝えて叶わなかったとありますが?信長を討つ程の大計画なのに、下準備として最低左記2名とは『密談』が出来上がっていなければならない筈です。

■南光坊天海

南光坊天海の生涯の特徴は、前半生をどのように生きたかがはっきりしないことと確実に100歳を超える長寿であったことです。

天海はその出自からして全くの謎ですが、確実なのは比叡山出身の僧であったこと。

そして徳川家康が関東に転封になった際に天海もこれに従って関東に住むようになったと言われています。

天海の主な役割は比叡山の僧としての仕事と朝廷との交渉、そして大坂の陣のきっかけとなった方広寺鐘銘事件にも林羅山

と共に深く関わっています。

その他にも家康の死後、「東照大権現」という神号を与えたことや、江戸という町を陰陽道や風水に従って都市構築を考えたという功績もあります。

・謎が多い天海

「僧正(そうじょう)」というのは、僧や尼をまとめたリーダーの立場、とでも言っておきましょうか。そんな立場だった天海は、江戸幕府初期には徳川家康の側近として「黒衣の宰相」の異名をもっていたそうです。

天海の前半生は不明な部分が多いです。

天海の直弟子である胤海が記した「東叡山開山慈眼大師縁起」によると、天海は陸奥国の蘆名氏の生まれだと書かれています。しかし、足利将軍の落胤説があるとも記されており、当時から謎が多い人物だったのでしょう。

そんな天海に弟子が尋ねたところ、「生まれも年齢も忘れてしまった」と語っているそうです。身近な人にさえ自分の出自を語ろうとしない天海の存在は、神秘的なものだったのではないでしょうか。

また、天海の年齢も諸説ありますが、かなりの長寿であったと伝わっています。現在では1536年生まれ、没年が1643年が定説となっており、なんと数え年で108歳だったそうです。

天海が家康と出会ったのは、家康が江戸城に入る前年(1589年)だったと言われています。そうして高齢ながら家康・秀忠・家光と、天海は徳川三代将軍に仕えたのです。

徳川幕府を江戸に置いたのも、天海の意見を家康が尊重したからだと伝わっているので、まさに徳川幕府の礎を築いた立役者なのでしょう。

■明智光秀が天海だと言われている理由

•天海の出生や前半生があまり分かっていないこと

•家康が祀られる日光に『明智平』という地域があること

•光秀の孫が大阪の陣で豊臣方に味方したにも関わらず処罰されていないこと

•天海のお墓が、光秀の居城であった『坂本城』の近くにあること

・天海の出生や前半生があまり分かっていない

光秀の死後、家康の周囲には光秀の関係者やそれに関わるような名前が出ています。そして天海は謎が多く付き纏う人物です。

出自や年齢がハッキリしていないこともあるのですが、光秀との関連性を窺わせる点があるところも、「天海=光秀」をイメージさせる要因なのでしょう。

日光の名所「明智平」は、天海が名付けたという伝承。

天海が深く関わった日光東照宮にある、光秀の家紋「桔梗紋」の存在。

豊臣方で戦った光秀の孫・織田昌澄は大坂の陣の後、家康によって助命。

徳川秀忠・家光の名前と、光秀という字の共通点。

徳川家光の乳母に、光秀の重臣だった斎藤利三の娘・春日局が採用。

・東照宮の桔梗紋と天海がつけた明智という地名

日光東照宮にある像に明智家の家紋である桔梗紋が使われていることです。

ご存知の通り、徳川家の家紋は葵。

しかしそこにわざわざ明智家の家紋である桔梗紋を象ることに違和感を感じるというのです。

他にも東照宮のある日光には明智平と呼ばれる地域があり、この名をつけたのが天海だということも光秀説につながる大きな理由の1つです。

あくまで伝承なのですが、天海が土地に明智平と名付ける際になぜかと聞かれた時、「明智の名を残すためさ」と答えたとされています。

ちなみに明智は本来美濃(現在の岐阜県)にある土地の名前ですが、それを含めて関東の日光に明智の足跡を残そうとするのは何か特別な意味があると考えられてもおかしくないでしょう。

ただ、桔梗紋は何も明智家だけが家紋としていたわけではありません。

桔梗紋は本来清和源氏に共通する家紋であり、明智家をはじめ数多くの清和源氏系の家が少しづつ形を変えながら使用していった歴史あるものです。

それに日光東照宮の桔梗紋も決して明智家のものと完全に同じというわけではないため、ここで決めつけるのはやや早計です。

・比叡山の石灯籠と天海の筆跡

比叡山には数多くの武将が寄進したとされる石碑が残っているのですが、そこには「光秀」と名が書かれた石灯篭もあります。

比叡山松禅寺にあるその石灯篭の日付は慶長20年(1615年)2月17日。

山崎の戦いで光秀が亡くなったとされるのは天正10年(1582年)。

にも関わらず光秀の名が残っているのはとても不思議です。

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