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これはびっくり…ヘレンケラーは、塙保己一に影響を受けていた偉大な人物だっただと!?

皆さんは塙保己一をご存知ですか?検校という優秀な人物で、とても秀才です。なんとあのヘレンケラーまでもが影響を与えた人物で私たちの生活にも影響を与えてます。原稿用紙の起源まで彼だというのですから、歴史というのはとても面白いものですよね。

更新日: 2019年10月15日

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ヘレンケラーは偉大な人物だ

アメリカ・アラバマ州の北部、メキシコ湾から快い暖風の吹きよせるタスカンビヤの町近くで、ヘレンケラーは1880年6月27日誕生した。

父アーサーケラーはスイス人の血をひく南北戦争当時の大尉、母のケイト・アダムスは父より20歳も若い妻だった。

1歳7ヵ月目に、原因不明の高熱と腹痛におそわれ、一時は医師も見放すほどの重体に陥ったが、医師の努力で辛うじて一命だけはとりとめたものの、耳と目をおかされ、光と音の世界から完全に隔離されてしまった。

ヘレンは天賦の才を開花させ、米国の女子教育の名門であるラドクリフ大学に入学します。

ラドクリフ大学はマサチューセッツ州ケンブリッジにある私立の女子大で、1879年ハーバード大学の教員たちが設立しました。

そのヘレンに影響を与えた人物が塙保己一だ

保己一は、1746年5月5日に、現在の埼玉県本庄市児玉町に生まれました。
生まれつき体が強いわけではなく、7歳の時に両目を失明してしまうことに。

三重苦のヘレン・ケラーが塙保己一を顕彰する社団法人温故学会に来会したのは、昭和12年4月26日のことであった。

聴力、言葉、視力を失った彼女がサリヴァン先生に救われたのは誰もが知る話ですが、彼女が心から尊敬し、学問を収得する際の手本とした人物が日本にいたことをご存知でしょうか。

彼女はここに保管されている盲目の国学者・塙保己一(はなわ・ほきいち)の鋳像や愛用の机に手を触れながら、幼いころ母親に日本の塙保己一の偉業と不屈の精神を教わり

講堂に入ると、「塙保己一像」や「塙保己一愛用の机」に触れ、トムソン嬢とケラーの指とがしきりに動いて会話している。満員の参加者は何事も見逃すまいとこの光景を眺めていた。

「私は子どものころ、母から塙先生をお手本にしなさいと励まされた育ちました。今日、先生の像に触れることができたことは、日本訪問における最も有意義なことと思います。

マジで!?原稿用紙も塙保己一が作ったの!?

その後、34歳の時に「群書類従(ぐんしょるいじゅう)」の編纂を始める。この事業は、多くの協力があってなされた。

保己一は、幕府や当時のお金持ちからも信用されていたそうで、開版費用や新たな版木倉庫建築費の借用を許された。

また、保己一の功績は、「群書類従」の編纂だけではない。幕府から、座中取締役という役にも任命された。

保己一もかなりの秀才ですね。

書く場所が一緒なので、視覚障碍者からしたら便利ですよね。

『群書類従』版木(国・重要文化財)には、保存のためにある工夫がされている。版木の両サイドには「はしばみ」(端喰)が取り付けられている。これは、版木同士が重なってもお互いの文字面が接して、キズつかないようにとの工夫がなされている。

版木の文字数については、黄檗版鉄眼一切経が縦一列で20文字、横10行と定めた。その後、塙保己一は版木一面の文字数を横10行・縦20文字・2段として、400文字詰様式にした。

これが原稿用紙の起源といわれている。

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