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コンドルカンキとは?

ホセ・ガブリエル・コンドルカンキ(José Gabriel Condorcanqui Noguera、1742年3月19日 - 1781年5月18日)、またの名をトゥパク・アマル2世(Túpac Amaru II)は、植民地時代のペルーにおける反乱(スペイン語版)(1780年 - 1782年)の指導者である。

裕福な家庭に生まれる

コンドルカンキは1741年、クスコ近くの裕福なクラカ(村長)の一族に生まれた。実のところ、純粋の先住民ではなく、メスティソであった。クスコの神学校に学び、ケチュア語、スペイン語、ラテン語を話し、二十歳にして、故郷の村のクラカとなった。

彼はインカ帝国最後の皇帝トゥパク・アマルの末裔と自称し、その確認を求めてリマのアウディエンシア(最高司法院)に訴え出たこともあった。そのとき提出された家系図によると、彼の祖先は土地の豪族ディエゴ・フェリペ・コンドルカンキと、その妻でトゥパク・アマルの娘ファナ・ピルコワコである、という。

運命の日ー1780年11月4日ー

1780年11月4日、スペイン国王カルロス三世の命名日を祝う宴に招待されていたコンドルカンキは、その宴の席から途中で退席した。同じ宴には、コンドルカンキの上司に当たるティンタ郡のコレヒドール(代官)のアリアガも参加していた。彼は土地の先住民に対する強圧的な支配で悪名の高かった人物であったが、宴からの帰り道、彼の前に軍勢を引きいて立ちはだかったのが、先に退席していたコンドルカンキであった。

代官は反乱軍に捕らえられ、かつてのアタウアルパと同じ目に遭った。役場の金庫と武器庫から、ありったけの現金と小銃を反乱の中心地に運び込むよう命ずる書類に署名させられた揚句に処刑されたのだ。
まだ反乱が露見しないうちに、この命令書によってコンドルカンキは労せずして大量の資金と武器を手に入れた。彼は多くの先住民を苦しめ、その命を奪ってきた鉱山や織物工場の強制労働の廃止を主張して各地の先住民を糾合し、小さな反乱はたちどころにアンデスを揺るがす大反乱に発展した。
彼には軍事的な才能があまり豊富ではなく、反乱に参加した農民の多くも兵士としての訓練など受けてはいなかった。

やがてこの反乱の急先鋒に立ち、強制労働に駆り出されていた先住民たちをまとめ、やがてアンデス地域全体をまとめながら、スペインに対する巨大な反乱組織を率いる。

瓦解する反乱軍

スペイン軍の抵抗は粉砕され、もはやクスコ陥落は確実となったそのとき、しかしコンドルカンキは突然反乱軍を後退させた。その原因は不明であるが、明らかに作戦の失敗だった。クスコを占領したとて、それで最終的に反乱が勝利できたとは限らないが、ともかくその後二度とクスコを攻め落とす機会はやってこなかった。

初めはこの反乱に合流すると思われたクリオーリョ(アメリカ大陸生まれの白人)勢力は、先住民の力の増大を恐れて協力を拒絶した。反乱軍の火器は少なく、農民はその扱いに慣れていなかった。とくに大砲は彼等にはまったく扱えず、植民地軍の捕虜に操作させたのだが、もちろん捕虜が本気で味方を撃つはずがなく、大砲はいつもあらぬ方向に向けて発射されるばかりであった。また戦争の経験のない農民兵は銃撃戦に怯えた。
やがて反乱軍は食糧も不足を来たした。結局、植民地政府が本気で鎮圧に乗り出すと、反乱軍はあっけなく破れ去った。その間わずかに5か月。

勢いを失った反乱軍は、3月21日、ティンタ郡の北サンガララーにて、追撃してきたスペイン軍と交戦して壊滅し、コンドルカンキはスペイン軍に捕らえられた。コンドルカンキは何度か脱獄を試みるが失敗し、1781年5月18日、クスコにて馬に引かれて八つ裂きにされる刑で処刑された。39歳没(41歳没との説もある)。有能な副官である妻ミカエラ・バスティダスも子女や郎党と共に処刑された。なお、妻子の処刑を見せられた後の処刑であった。

受け継がれる志

各地でコンドルカンキに連携した反乱が続発し、特に今日のボリビアのラパス近郊で1781年3月に蜂起し、ラパスを4ヶ月に渡って包囲したトゥパク・カタリの反乱は、コンドルカンキに匹敵する規模と影響力を持った。結局、スペイン植民地当局は続発する反乱によって次第に力を削がれ、40年後のシモン・ボリバルとホセ・デ・サン=マルティンによる南米の独立に至る。その意味で、敗れたとはいえコンドルカンキの反乱が南米各国の独立に果たした役割は、決して小さくはない。コンドルカンキの“Campesino, el patrón ya no comerá más de tu pobreza”(農民よ、地主は二度とあなたの貧しさを食いものにはしない)という言葉は近現代ペルーの政治でもたびたび引用されてきた。

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