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マキャベリの君主論・全文まとめ

マキャベリの君主論の全文をまとめました。

更新日: 2020年06月27日

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この記事は私がまとめました

tinkonさん

君主論

目次
第1章 何種類の君主国があるのか、それらはどういう手段で獲得されたか
第2章 世襲の君主国について
第3章 混合した君主国
第4章 アレクサンダー大王に征服されたダリウスの王国は、大王の死後、なぜその後継者に反乱を起さなかったか
第5章 併合される前は独自の法のもとで暮していた都市や君主国を統治する方法について
第6章 自分の軍隊と力量で獲得した新しい君主国について
第7章 他人の軍隊か幸運かによって獲得されて新しい君主国について
第8章 非道によって君主国を獲得した者たちについて
第9章 市民君主国について
第10章 あらゆる君主国の兵力をどう測るべきかについて
第11章 教会君主国について
第12章 軍隊はなん種類あるか、そして傭兵について
第13章 外国からの援軍、混成軍、自国軍について
第14章 戦争の技術という課題について君主がかかわるべきこと
第15章 人、特に君主が称賛されたり非難されたりする理由となる事柄について
第16章 気前よさとけちくささについて
第17章 冷酷さと慈悲深さについて、また愛されるほうが恐れられるよりもよいかどうかについて
第18章 君主が信義を守るやり方について[37]
第19章 軽蔑され憎悪されるのを避けること
第20章 君主がしばしば頼りにする要塞やその他のものは役に立つか、それとも有害か
第21章 君主は名声を得るためにどうふるまうべきか
第22章 君主の秘書官について
第23章 おべっか使いをどのように避けるべきか
第24章 なぜイタリアの君主たちはその国を失しなってきたか
第25章 運命が人間の諸事に及ぼす効果と運命に対抗する方法
第26章 イタリアを蛮族から解放せよという勧め

第1章 何種類の君主国があるのか、それらはどういう手段で獲得されたか

人民をこれまで支配した、また今支配している、あらゆる国家、あらゆる権力は、共和国か君主国のどちらかです。
 君主国は、一族が長い間不動のものとしてきた世襲のものか、新興の君主国のどちらかです。
 新興の君主国は、フランチェスコ・スフォルツァのものとなったミラノのような完全に新興の君主国と、
スペイン王の手中に落ちたナポリ王国のように、もともと君主国であったものが、それを獲得した君主の世襲国の付属物となったもののいずれかです。
 こうして獲得された領土は、君主のもとで生きることに順応していたものか、自由に生きることに順応していたものかのいずれかであり、そしてそれは、君主自身の武力に
よってか他の者の武力によって獲得されるか、そうでなければ、運や才能によって獲得されるかのどちらかなのです。

第2章 世襲の君主国について

私は、共和国については別のところで詳細にわたり書いていますので、それについて
の議論は割愛し、君主国についてだけお話しいたすつもりです。そうすることで、先に
示しました順序に従い、こうした君主国をどのように支配し、保持するべきかというこ
とを論じるつもりです。
 ただちに言えることですが、新興の国家にくらべると、世襲の国家で、君主の一族に
長い間慣れ親しんだ国を保持するほうが困難ではありません。というのは、自国でおの
れを守るくらいの平均的な能力のある君主にとっては、なにか並はずれた過大な力で国
を奪われないかぎり、その父祖の慣習を破らないようにし、その慣習が生じた情況を慎
重に取り扱えば十分だからです。それに、奪われた場合、強奪者になにか災いが起れば、
彼はその国を奪還するでしょうから。
 イタリアでの例を上げると、フェラーラ大公は、長きにわたってその領土を保ってこ
なかったとしたら、1484年のヴェネツィアの攻撃に持ちこたえることができなかったで
しょうし、1510年の教皇ユリウスの攻撃にも耐えることができなかったでしょう。とい
うのは、世襲の君主には反感を抱かせる原因も少なく、またそうする必要も少ないのだ
から、より愛されることになり、よほどの悪行で憎まれないかぎり、臣民が当然その君
主によく仕えるものと期待するのは理にかなっているからです。またその支配が古く長
く続けば、変革を起すような記憶も動機も失しなわれます。なぜなら、ある変革という
ものは別の変革に歯形を残していくものですから。

第3章 混合した君主国

しかし新興の君主国には困難が生じます。まず第一に、完全な新興の君主国ではなく、
もともと君主国であったものが、集約されて混成国家と呼ばれるものの一員となった場
合には、変化は主にあらゆる新興の君主国につきまとう固有の難点から生じます。とい
うのは、自分がより良い状態になるという希望を抱いて、人はよろこんで支配者を変え
るものですが、この希望のせいで彼らは支配する者に抗して武器を取るからです。彼ら
は後になって経験によってさらに悪い状態になっていることを悟るので、その点では欺
かれているのですが。このことから、別の当然でもあり普通でもあるような必然的結果
を生じるのですが、いつもそのせいで新しい君主は、服属する人々を、その兵士によっ
て、また新領土に課すにちがいない無数の苦役によって、苦しめることになるのです。
 こうして君主は、その君主国を奪うときに傷つけたあらゆる人たちを敵にまわし、自
分をその地位につけた人々も、彼らが期待したようには満足させることができないので、
味方につけておくことはできず、しかも彼らに恩義を感じるため、彼らにたいして強硬
な手段をとることもできないのです。というのも、たとえ武力では極めて強力であった
としても、その地方に入るには、いつだって土地の人たちの善意が必要なのですから。
 こうしたわけで、フランス王ルイ十二世は、たちまちミラノを占領したものの、たち
まちこれを失ったのです。最初のときは、彼を追い払うのにルドヴィーコの手勢だけで
十分でありました。なぜなら、ルイ十二世に城門を開いた者たちは、将来の幸福という
希望で欺かれたことを悟り、新しい君主の虐待に我慢できなかったからなのです。二度
目に謀反の地を奪取した後では、その後そうやすやすとは失うことはないことは、まさ
に真実です。なぜなら、君主は、さして思いわずらうことなく、謀反の機会をとらえて
謀反人を処罰し、疑わしい者を一掃し、自分の弱点を補強するからです。こうして、フ
ランスがミラノを失うには、最初はルドヴィーコ公[1]が国境で暴動を起すだけで十分
だったのに、二度目には全世界を彼に対抗させ、彼の軍隊を打ち破り、イタリアから駆
逐することが必要だったのです。これは上に述べた原因から生じたことなのです。
 にもかかわらず、ミラノは一度ならず二度までもフランスから奪還されたのです。最
初のときの概略の理由はもう述べましたが、二度目の理由を挙げること、そして、フラ
ンス王にどんな算段があったのか、もしだれかフランス王と同じ立場に置かれたら、獲
得した国を彼よりももっと確実に保持するにはどうしたらよいかを見ておくことは、ま
だやり残しています。
 さて、君主が新に領土を獲得してもとからの国家に併合する場合、その領土は同じ国
土で言語も同じであるか、そうでないかのどちらかです。同じ場合には、その領土を保
持するのは容易ですし、自治に慣れていなければ、なおさらです。その領土を確実に保
持するには、それまで支配していた君主の一族を滅ぼしさえすれば十分なのです。なぜ
なら、その他のことは旧態のままにしておけば、二つの領民は習慣に違いはなく、一緒
に平穏に暮していくからです。それは以前からフランスに併合されてきたブルターニュ、
ブルゴーニュ、ガスコーニュで見られる通りです。その地方では、言語が少し異るとは
いえ、習慣は同じようなものであり、一緒にうまくやっていくのです。併合した君主は、
その領土を保持したいのなら、二つの事柄を念頭に置いておくだけでよいのです。その
一つは、以前の領主の一族を根絶やしにすることであり、もう一つは、法や税を変えな
いことです。そうすれば極めて短期間のうちに、新領土はもとの君主国と完全に一体と
なるのです。

しかし、言語も習慣も法も異る国土で国家を獲得すれば、そこには諸困難があって、
その国家を維持するには幸運と多大な精力が必要となります。もっとも巧みで実際的な
手立ての一つは、そういう国家を獲得したら、そこに行って住みつくことです。トルコ
がギリシアでやったのがこうしたことでした。その国を保持するため他の手段をどれだ
け講じようと、移住しなかったなら、ギリシアを保つことはできなかったでしょう。な
ぜなら、現地にいれば、不穏な動きがあればすぐにわかり、たちまち鎮めることができ
ますが、真近かにいなければ、聞きつけたときには騒ぎは大きくなっていて、もう手の
つけようもないことでしょう。その上、国が配下の役人たちに略奪されることがなく、
臣民は直ちに君主を頼りにできることで納得します。こうして、善良であろうとすれば、
君主を慕う動機を持つことになり、善良であろうとしないのであれば、君主を恐れるこ
とになるのです。外部からその国に攻撃をしかけようとする者はおそろしく慎重にかま
えざるをえません。君主がそこに住みつくかぎり、彼からその国をもぎ取るのは、非常
に困難となるのです。
 別のもっと良い方策は、国の要といえる二、三の場所に移民団を送ることです。とい
うのも、こうするか、さもなければ多数の騎兵や歩兵を駐屯させることが必要だからで
す。君主は移民団にはそれほど経費をかけずにすみます。というのは、ほとんど出費を
せずに、あるいはまるで費用をかけずに、移民団を送り出し、そこに留め置くことがで
きるからです。君主は、新しい住民に与えるために土地や家を取り上げられる少数の市
民だけは感情を害することになりますが、感情を害した人たちは、貧しく散在したまま
なので、君主に害を与えることができません。一方、他の市民は損害を受けず、容易に
平穏を保ち、同時に、強奪された連中と同じことが我が身にふりかかることを恐れて、
誤らないようびくびくするのです。要するに私が言いたいのは、こういう移民団は費用
がかからず、忠実で、害をなすことも少く、また、もう述べたように、損害を蒙った者
たちも貧乏で散在してるから、危害を加えることはできません。この点については、人
間を好遇するか叩き潰すかどちらかであるべきだということに、注意しなければなりま
せん。なぜなら人は軽い損害には復讐できるけれど、重大な損害には復讐できないから
です。それで、人に損害を与えるときは、恐怖のあまり復讐できないような損害でなけ
ればならないのです。
 しかし、移民団のかわりに武装兵を保持すると、もっと費用がかさみ、国家の全歳入
を駐屯兵に費すことになります。そうなると国家全体に被害が及ぶので、領土の獲得が
損になり、もっと多くの人を激昂させます。駐屯軍があちらこちらへ移動することで、
だれもが辛苦をなめ、だれもが敵対的になります。そして彼らは自分の土地のうえに打
ち倒されたとはいえ、まだ害をなしうる敵なのです。だから、どの理由からみても、こ
うした守備隊は役に立たず、移民団は有用なのです。
 さらに、上に述べた点で異なっている国を保持する君主は、より弱小の近隣国の盟主
にして庇護者となり、そのなかのより強大な国の力を弱めようとしなければなりません。
そして、なにが起ころうと、自分と同じくらい強力な外国勢力がその地域に地歩を固め
ないよう注意を払わなければならないのです。というのは、すでに見たとおり、すぎた
野望からか恐怖からか、不満を抱いた人たちがこうした勢力を導き入れるでしょうから。
アエトリア人がローマ軍をギリシアに招き入れたのですが、ローマが地歩を得たところ
はどこでも、住民が彼らを招き入れたのです。そして物事の通常の流れとして、強力な
外国勢力が侵入するとたちまち、服属国というものは、支配者にたいして抱く恨みにか
られて、離反するのです。それで、こうした服属国については、外国勢力は苦労もせず
にそれらを手に入れるのです。なぜなら、服属国の全部がその地を獲得した国のもとに
たちまち結集するからなのです。服属国があまり大きな力や権限を持たぬよう気をつけ
さえすれば、自分の勢力とそれらの国の善意とで、その中のより強力な国を容易に抑え
こむことができ、そうして国土の完全な主人という地位に留まるのです。こういう努め
を適切に果さないと、得たものをたちまち失なうでしょうし、保持している間も、絶え
間のない困難と厄介を抱えこむでしょう。

ローマ人は、属領とした諸国で、この方策をきちんと守ってきました。彼らは移民団
を送り、弱小な勢力と友好な関係を維持しながらも、その力を増大させないようにして、
強大な勢力は抑えこんで、どんな強力な外国勢力にも権威を得させることはありません
でした。例としてギリシアをあげておけば十分だと思います。ローマはアカイア人とア
エトリア人とは友好を保ち、マケドニア王国を敗北させて、アンティオコスを追い払い
ました。けれども、アカイア人とアエトリア人が功績あったといって、その勢力を増大
させることを許容してもらえることはありませんでしたし、ピリッポスを一度叩きつぶ
してからでないと、彼の求めに応じて友好関係を結ぶことはありませんでした。またア
ンティオコスが影響力があるからといって、彼がその国土の主権を保持することを是認
することもありませんでした。なぜなら、ローマ人はこうした事例で、分別ある君主な
らだれもがすべきことをしたからなのですが、分別ある君主というものは、ただ現在の
厄介事だけでなく、将来の厄介事も考慮するものなのです。将来の厄介事には全精力を
つかって準備をすべきです。というのも、予見しておけば、それを治療するのはわけな
いのですが、さし迫るまで待っていると、薬がまにあわず、病は不治のものとなってし
まうのです。消耗熱の場合、病気の初めには見立ては難しいが治療は楽なのに、初期に
診察も治療もせずに、病状が進むと、見立ては楽でも治療は大変だと、医者は言います
が、この場合も同じです。国事の場合もこうしたことが起こるのです。というのも、生
じる災いを予見したら(予見するのは賢い人にしかできないことなのですが)、すぐに
それを鎮めることができますが、見過ごして、だれにもわかるほどまで、災いが大きく
なると、もはや手のほどこしようがなくなるからです。だから、ローマ人は難事を予見
すると、ただちにその処理をし、戦争を避けるためだとしても、難事を危機的な状態に
至らせることはなかったのです。なぜなら、戦争は避けられるものでなく、先送りにす
れば敵方を利するだけだということを、彼らはわかっていたのです。そのうえ、ローマ
人はピリッポスやアンティオコスとイタリアで戦わないために、ギリシアで戦おうとし
たのです。彼らはどちらも避けえたかもしれませんが、そうは望まなかったのです。そ
して彼らは、当代の賢者がいつも口にする「時の恵みを享受しよう」という言葉に満足
せず、むしろ自らの勇気と思慮の恵みを恃んだのです。というのも、時はすべてを駆り
立てて、禍福ないまぜにもたらすことができるのですから。
 では、フランスに目を転じて、フランスが今述べたことをやってきたかどうか調べて
みましょう。私が話そうとしているのは(シャルル[2]ではなく)ルイ王[3]のことで
す。彼はかなり長い期間イタリアを領有したので、その行動はより検証しやすいのです。
そして、彼がやったことは、さまざまな要素から成り立っている国家を保持するために
しなければならないこととは正反対のことだったことが、おわかりになるでしょう。
 ルイ王はヴェネツィアの野望によってイタリアにやってきたのです。ヴェネツィアは
彼の干渉によってロンバルディア地方の半分を手に入れようとしたのです。私は王のと
ったこの方針を非難しようとは思いません。なぜなら、イタリアに足掛かりを得たいと
思いながら、その地に味方がおらず、それどころかシャルル王の行動のおかげであらゆ
る門戸が閉じられて、得ることのできる友好関係は受入れざるをえなかったのですし、
もし他の問題で失敗さえしかなったなら、彼はその計画でたちまち成功していたでしょ
うから。

とはいえ、王はロンバルディアを手に入れると、すぐにシャルル王が失なった権威を
とりもどしました。ジェノヴァは屈伏し、フィレンツェ共和国は友好関係を結び、マン
トヴァ侯、フェラーラ公、ベンティヴォリオ家、フォルリ夫人、ファエンツァ、ピサロ、
リミニ、カメリノ、ピオンビノの諸侯、ルッカ共和国、ピサ共和国、シエナ共和国はみ
な、友好関係を結ぼうと申し出たのです。そうしてヴェネツィアは、ロンバルディアの
二つの都市を確保するためにとった方策が軽率だったせいで、ルイ王をイタリアの三分
の二の支配者にしてしまったことを悟ったのです。
 さて誰にもさして困難もなく、王は、上に述べた規則を守り、友邦を安全にし保護し
ておけば、イタリアでのその地位を保持できたと思われました。というのは、それらの
国々は、数こそ多いものの、あるものは教会を恐れ、あるものはヴェネツィアを恐れて、
弱小で臆病であり、それでフランス王の味方とならざるをえず、王はその力を借りて、
依然強力であった国から自分の安全を確保できたでしょうから。ところが、王はミラノ
に入るとすぐに、それと反対に、ロマーニャを占領しようという教皇アレクサンデルを
支援したのです。この行動によって、自分から友邦や膝下に身を投げ出した諸国を離反
させ、一方では霊的権限に世俗の権力を付け加えて、教会を強大にし、こうして教会に
より大きな権威を与えて、自らを弱体化させているとは、思いもしなかったのです。こ
の最初の誤りを犯すと、それに追従せざるをえず、そういうわけで、アレクサンデルの
野望に歯止めをかけ、トスカナの支配者となるのを阻止するために、イタリアへやって
こざるをえなかったのです。
 そして王は、教会を強大にし、友邦を離反させるだけでは足りないかのように、ナポ
リ王国を欲しがって、スペイン王と分け合おうとしたのです。イタリアの第一人者であ
ったのに、共同者を引込み、そのおかげでその国の野心家や王にたいする不満分子に隠
れ家となるものを与えることになったのです。そのうえ、ナポリ王国には王として自分
の手先を据えることもできたのに、その手先を追い出して、反対にルイ王を追い出すこ
ともできる人物を王に据えたのです。
 領土を獲得したいという欲望は、実際、きわめて自然であたりまえのことであり、人
はできるときには、領土を獲得するので、そのことでは称賛されても非難されることは
ありません。けれど、できないときに、なんとしても領土を獲得したがるなら、愚かで
非難されるでしょう。だから、フランスが独力でナポリを攻撃できるのなら、そうすべ
きであったのですが、そうできないのなら、ナポリを分け合ってはならなかったのです。
ロンバルディアをヴェネツィアと分割したことは、それでイタリアに足掛かりを得たか
ったという口実で正当化できるでしょうが、こちらの分割は、必要性という口実がない
ので、非難されて当然です。

その結果、ルイ王は次の五つの誤りを犯したのです。彼は弱小勢力を破壊し、イタリ
アのより強い勢力の力を増大させ、外国勢力を導き入れ、またその国に移住せず、移民
団も送りませんでした。ヴェネツィアから支配権を奪うという六番目の誤りを犯さなけ
れば、どの誤りも、彼が生きているうちは、彼に損害を与えるほどのものではありませ
んでした。なぜなら、彼が教会を強大にしたり、スペイン王をイタリアに引き入れたり
していなければ、ヴェネツィアを屈伏させるのは理にかない必要なことでもあったので
すが、こうした行動に出たからには、ヴェネツィアの没落に同意してはならなかったの
です。というのも、ヴェネツィアが強力であれば、ロンバルディア攻略から他国を排除
できたからです。ヴェネツィアは、自分がロンバルディアの支配者になるのでなければ、
他国の攻略に同意することはなかったのです。また、他国がヴェネツィアにロンバルデ
ィアを与えるために、フランスから奪おうとはしないし、この両国に衝突しようという
度胸はなったでしょうから。
 ルイ王は戦争を避けるために、アレクサンデルにロマーニャを、スペインにナポリ王
国を譲ったのだと言う人があるでしょうが、私はこれに、上に述べた理由から、戦争を
避けるのは、やってはならない大失策だと答えるでしょう。なぜなら、戦争は避けられ
ず、躊躇すれば不利益になるだけですから。また、ルイ王は自分の結婚の解消[4]とル
ーアン[5]の帽子と引き換えに、教皇の企図を援助するという約束を果そうとしたと断
言する人には、この後に、君主の信義はどういうもので、どう守るべきかを述べるので、
それを返答とします。
 こうしてルイ王は、諸国を手に入れ、それを保持しようとした人たちが守るべき条件
になにひとつ従わなかったので、ロンバルディアを失なったのです。それにはなんの不
思議もなく、理にかなったまったく当然の結果でした。教皇アレクサンデルの息子でチ
ェザーレ・ボルジアとして知られるヴァレンティノ公[6]がロマーニャを占領していた
とき、私はナントでルーアンの枢機卿と、この問題について話したことがありますが、
ルーアンの枢機卿は私に、イタリア人が戦争というものが分っていないと述べたので、
私は、フランス人は治国というものが分っていない、分っていれば教会をあそこまで強
大にはさせなかったろうにと申したのでした。また実際、教会とスペインがイタリアで
強大になったのはフランスのせいであり、またそれらによってフランスは没落したので
す。このことから決して間違いのない、あるいはほとんど間違うことのない一般的法則
が導き出されます。それは、他人を強力にする原因となる者は没落するということです。
なぜなら、その者の抜け目なさかさもなければ力によって優勢となったのですが、勢力
を得てしまうと、このどちらも信頼がおけないからなのです。
英訳の注 
[1] ルドヴィーコ公とは、フランチェスコ・スフォルツァの息子ルドヴィーコ・モロで、
彼はベアトリーチェ・デエステと結婚した。1494年から1500年までミラノを支配し、
1510年に死去。
[2] シャルル八世、フランス王、1470年生、1498年没。
[3] ルイ十二世、フランス王、「国民の父」、1462年生、1515年没。
[4] ルイ十二世は妻のルイ十一世の娘ジャンヌと離婚し、ブルターニュ公国をフランス王国に確保するために、シャルル八世の未亡人のブルターニュのアンヌと1499年に結婚した。
[5] ルーアン大司教、ジョルジュ・ダンボワーズ。アレクサンデル六世により枢機卿に叙任。1460年生、1510年没。
[6] イタリアでは、ルイ十二世によってヴァレンティノ公爵に任じられたことから、こう呼ばれる。

第4章 アレクサンダー大王に征服されたダリウスの王国は、大王の死後、なぜその後継 者に反乱を起さなかったか

新しく獲得した国家を保持するさいの困難さを考えてみると、アレクサンダー大王が
数年でアジアの支配者となり、まださして身を落つける間もなく死んだ(それゆえ帝国
全土が反乱してもよさそうなものなのに)、それにもかかわらず、その後継者たちは自
らを守り、自分の野望からお互いの間で引き起こした困難以外にはなんの困難にもあわ
なかったのは、どうようにしてなのか、不思議に思う人たちもいることでしょう。
 私は次のように答えておきましょう。記録に残るような君主国は、異なる二つのやり
方のどちらかで統治されてきました。一つは、家臣団をひきつれた君主によって統治さ
れるもので、家臣団は君主の恩顧と認可による大臣として、君主が王国を統治するのを
補佐します。もう一つは君主と封建領主によって統治されるもので、封建領主は君主の
恩寵ではなく血統の古さでその地位を保持しているのです。こうした封建領主は自分の
国と臣民を持っていて、この臣民は領主を主君と認め、彼に自然な親愛の情を抱いてい
るのです。君主とその家臣団によって統治される国家は、君主を最も重視しています。
なぜなら、国中では君主より優ると考えられるものは一つもなく、また別の人に服従す
るなら、大臣や官吏としてそうするのであり、君主になにか特定の親愛の情を抱いたり
はしないからなのです。
 当代のこの二つの統治の実例は、トルコとフランス王です。トルコの君主国全体は一
人の主人によって統治され、その他の者は彼の家臣であって、その王国は県に分割され、
そこには種々の行政官が派遣され、この行政官たちは王の選ぶがままに異動変更される
のです。しかしフランス王は古くからの領主の一団のただ中にあるのであり、この領主
たちは自身の家臣に主人として承認され、敬愛されていて、自らの特権を持ち、王はこ
の特権を危険を冒さずに奪い取ることはできないのです。だから、この二つの国家を考
察してみると、トルコという国家を獲得するのはとても困難だが、一旦征服すればそれ
を保持するのはとても簡単だとわかるでしょう。トルコの王国を獲得するのが困難であ
る原因は、強奪者が王国の諸侯に迎え入れらることなんてありえないし、王の側近たち
の反乱でその征服計画が助けられることを望みうべくもないからです。

これは上で挙げた理由から生じます。というのも、その大臣はみな奴隷だから、買収するのはとても困難で、買収できたとしても、述べてきた理由から、彼らに民衆がつき従うはずもなく、
彼らからはほとんどメリットを期待しようがないからです。だから、トルコを攻撃する
者は、トルコが一致団結していることを思い知り、他人の反乱よりも自分の兵力を恃み
にするしかないということを、念頭におかなければなりません。しかし、一旦トルコを
征服し、その軍隊を立て直せないほどに戦場で敗走させれば、君主の一族以外に恐れる
ものはなく、この一族を根絶すれば、他には民衆に信頼されるものはいないので、恐れ
るものはなにも残りません。勝利の前には民衆をあてにできなかったと同じように、勝
利の後では民衆を恐れる必要はないのです。
 フランスのように統治されている王国では、逆のことが起ります。なぜなら、いつで
も不満分子や政変を望む者が見つかるので、王国の領主のだれかを味方につければ、簡
単にそこに侵入できるからです。こうした者たちは、さっき述べた理由から、その国へ
入る道を開き、勝利を容易なものとしてくれます。しかし、その後もその国を保持しよ
うとすると、助けてくれた者たちからも、打ち破った者たちからも、無数の困難に見舞
われるのです。君主の一族を根絶するだけでは足りません。なぜなら、残った領主たち
は新たな反抗行動の頭目となり、彼らを満足させることも根絶することもできないので、
機会が到来すればいつでも、その国を失うことになるのです。
 さて、ダリウスの統治の本質がどうであったかを考えてみると、それがトルコの王国
に似ていることがわかります。だから、アレクサンダーはまず戦場でダリウスを打ち倒
し、それから彼から国を奪い取ることだけが必要だったのです。この勝利の後、ダリウ
スは殺されたので、上述の理由から、国家はアレクサンダーの手に確保されました。そ
してアレクサンダーの後継者たちは、結束しているかぎり、確実かつ容易にこの国を享
受できたのです。というのも、彼ら自ら引き起こした以外には、王国には騒乱が起こら
なかったのですから。
 しかし、フランスのような構成の国家を平穏のうちに保持するのは不可能です。それ
で、スペイン、フランス、ギリシアでは、多くの君主国があったせいで、ローマ人にた
いする反乱が多発し、そういう君主国の記憶が残るかぎりは、常にローマ人は不安定な
領有しかできませんでした。しかし帝国の支配力とそれが長く続いたことで、その記憶
が払拭されて、ローマ人の領有は確実なものになったのです。そしてそれ以後、互いに
戦いながら、それぞれがそこで勝ち得た権力にしたがって、国内の固有の部分を付加し
ていったのです。以前の領主の一族は根絶されているので、ローマ人以外には権威を認
められることはありませんでした。
 こうしたことを思い起せば、アレクサンダーが容易にアジアの帝国を保持し、それ以
外のピュロス等々の多くの者たちが、獲得した国を維持するのに困難をきわめたことは、
驚くにたりません。それは征服者の能力の多寡のせいで生じたのではなく、置かれた状
況が同じではなかったせいなのです。

第5章 併合される前は独自の法のもとで暮していた都市や君主国を統治する方法について

もう言ってきたような獲得された国家が独自の法のもとで自由に生活するのに慣れて
きたところでは、その国家を保持したいと思う人には三つの進路があります。その一つ
目はこうした国家を破壊すること、次には本人がそこに住むこと、そして三番目は彼ら
が独自の法のもとで生活することを許して、租税を取り立て、内部には友好関係を保つ
寡頭政権を確立することです。なぜなら、こうした政府は、君主によって生み出された
のであり、君主の友好と権益がなければ立ちいかないことを知っており、君主を支援す
るため最善をつくすからです。だから自由に慣れた都市を保持したいのであれば、他の
いかなる手段にもまして、その市民たちを使えば、その都市を容易に維持できるでしょう。

 例として、スパルタ人とローマ人をあげましょう。スパルタ人は寡頭政権を立ててア
テネとテーベを保持しましたが、それにもかかわらず、両市を失しないました。ローマ
人は、カプア、カルタゴ、ヌマンシアを保持するために、それらを破壊し、そしてそれ
らを失しなうことはありませんでした。彼らはスパルタ人がやったようにしてギリシア
を保持したいと思い、ギリシアを自由にし、独自の法を持つことを許しましたが、成功
しませんでした。それで、ギリシアを保持するためには、その地域の多くの都市を破壊
せざるをえませんでした。というのは、実際のところ、そうした都市を保持するには、
それを破壊する以外に確実な方法がないからです。そして、自由に慣れた都市の支配者
となりながら、その都市を破壊しない者は、その都市によって破滅させられるものと思
われます。なぜなら、反乱の際に都市は、勢力回復の契機として自由というスローガン
と古くからの特権を持っているのですから。この二つは、どんなに時を経ようが、どんな恩恵を施そうが、
忘れさられはしないのです。そして、それにたいして、何をしようが、どう対策を講じようが、
都市は四散五裂していなければ、自由という名や自分たちの特権を忘れることはけっしてなく、
あらゆる機会にそのもとへと直接糾合します。ピサは、フィレンツェに隷従してから百年の後に、そうしたのです。

 しかし、君主のもとで生活するのに慣れ、しかも君主の家系が絶えた都市や地域では、
一方では服従するのに慣れ、他方では古い君主がいないので、自分たちの間から君主を
立てるのに合意することができず、また自己統治のやり方もわからないのです。こうい
う理由から、彼らは武器を取るのが極めて遲く、君主は彼らを味方につけることができ、
やすやすと確保することができるのです。しかし、共和国ではもっと活力があり、憎悪
も大きく、復讐心に富んでいて、以前の自由の記憶を決して忘れようとはしないので、
もっとも安全な方法は、共和国を破壊するか、あるいはそこに住みつくことなのです。

第6章 自分の軍隊と力量で獲得した新しい君主国について

これから私がしようとする全く新しい君主国についての話で、君主についても国家に
ついても最高の事例をもちだしたからといって、驚いたりしないでください。なぜなら、
人間というものは、たいていの場合、他人が踏み固めた道を歩き、その行為をまねるこ
とで追従するものですが、他人の通った道を完全に辿ることもできないし、まねしよう
とする相手の力を手に入れることもできないからです。賢者はいつも偉人の踏み固めた
道を辿り、至高の人のまねをするべきです。そうすれば、たとえその能力がそうした偉
人に匹敵するものでなくても、少くともその風味を身につけることになるでしょう。あ
まりにも遠くに思われる的を射ようと思い、しかも自分の弓の力がどこまで届くか知っ
ている賢明な射手は、的よりもっと高みを狙い、そのことで自分の力なり矢をそのよう
な高みに届かせようとするのではなく、目標より高いところを狙うことで、射たい的に
当てることを可能にするものですが、それと同じようにふるまうべきなのです。
 だから、全く新しい君主国では、そこには新しい君主がいるわけですが、その国家を
獲得した者の能力の多寡に応じて、そういう国家を維持する難しさに多寡が生じると言
えるでしょう。さて、私人の状態から君主になるといった事態は才能か幸運のどちらか
を前提条件にしているのだから、こうした二つのもののいずれも多くの困難をある程度
は軽減するだろうことは明かです。それにしても、幸運に頼ることの少い者のほうが強
固な地位を確保するのです。さらに言えば、君主が他に国家を持っておらず、本人自ら
がそこに住みつかざるをえないときのほうが、事態を容易にするのです。
 しかし、幸運によってではなく自らの才能で君主に成り上った人たちに関するなら、
モーゼ、キュロス、ロムルス、テーセウスといった人たちがその最も優れた実例と言え
ます。そしモーゼはただ神の御意志の執行者であるとして、誰もモーゼのことは吟味し
ようとはしませんが、とはいっても、神と語らう価値のあるものとした恩寵だけでも、
彼を称賛すべきでしょう。しかし王国を獲得したり創建したキュロス等の人たちのこと
を考えると、全員が称賛に値することがわかります。彼らの個々の行動や振舞いをよく
考えてみると、モーゼはかくも偉大な授戒者を持ったとはいえ、彼らがモーゼの行いに
比べ劣ってるとは思えないのです。そして、彼らの行動や人生を検討してみれば、彼ら
が好機以上に運に頼ったわけではなく、その好機は彼らに最良と思われる形にかたどる
素材をもたらしたのだいうことがわかるでしょう。そういう好機がなければ、彼らの精
神の力は消え失せたでしょうし、またそういう力がなければ、好機も虚しいものとなっ
たでしょう。
 だから、モーゼにとって、エジプトのイスラエルの民が束縛から解放されようと彼に
従う気にさせるためには、彼らがエジプト人に奴隷にされ抑圧されていることが必要で
した。ロムルスがローマの王となり父祖の地の建国者となるためには、彼はアルバにと
どまることなく、また生れ落ちるとすぐに捨てられることが必要でした。キュロスはペルシャ人が
メディア人の統治に不満を抱き、メディア人が長い平和の軟弱で女々しくなっているのを
知ることが必要でした。テーセウスはアテネ人が四散しているのを知らなければ、
自分の才能を発揮できなかったことでしょう。こうした好機は、ですから、こうした人たちに幸運をもたらし、
またそのすぐれた才能が彼らに好機を気付かせてくれました。
この好機によって彼らの国は高貴なものとなり、有名になったのです。

これらの人と同じように武力によって君主となった者は、君主国を獲得するのに困難
を伴うけれど、それを維持するのは容易です。君主国を獲得する上での困難は、一部は、
彼らがその政権や保安を確立するために導入せざるをえなかった新しい規則や方法から
生じるのです。そして、新しい秩序の導入の先頭にたつこと以上に、着手するのが難し
く、行うのが危険で、成功が不確かなものにことを思い起すべきです。なぜなら革新者
にとって、古い状況ではうまくやっていた人全員が敵であり、新しい状況でうまくやれ
そうな人はいいかげんな味方でしかないのですから。この冷淡さは一部は、反対派が自
分たちの側に法を握っているので、彼らにたいする恐怖から生じます。また一部は、人
間というものは新しい事物を長く経験してからでなければ簡単には信じないので、その
猜疑心からも生じているのです。こうして、敵意のある人たちには遊撃隊のように攻撃
の機会があり、一方ではその他の人たちは防衛に不熱心であれば、こうして君主は彼ら
とともに危険に陥ることになるのです。
 ですから、この問題を隅から隅まで語りつくそうとしたいなら、こうした革新者が自
らを恃むのか他人をあてにしているのか、すなわち、その事業を完遂するために祈るし
かないのかそれとも力を行使できるのかを調べることが必要です。第一の場合はいつも
上手くやりおおせず何事も達成できません。しかし、自らを恃みしかも力を行使できる
なら、危険にさらされることは、ほとんどありません。それで、武装した預言者はみな
勝利し、武装なき預言者は身を滅ぼしたのです。こうした理由のほかに、人々の本性は
変りやすく、それで、彼らを説得するのは簡単ですが、その説得を受け入れたままにし
ておくのは難しいのです。こうして、彼らが信じなくなったときは、力ずくで信じさせ
ることが可能となるような手段を講じることが必要なのです。
 もしモーゼやキュロス、テーセウス、ロムルスが武装していなければ、自分たちの制
度を長きにわたって押しつけることはできなかったことでしょう。それは私たちの時代
にジロラモ・サヴォナローラ師の身に起ったのと同じことです。彼は大衆がもはや彼を
信じなくなるとすぐに彼の新しい秩序とともに滅びました。そして、彼を信じてきた者
をしっかりとつなぎとめ、信じていない者に信じさせる手段を持っていなかったのです。
したがって、こうした人たちはその事業を成し遂げるのに大きな困難を抱えています。
というのも、その危険はしだいに増大するからですが、それでも彼らは才能でそれらを
克服していくのです。しかし、それらが克服され、彼らの成功を妬む人たちが根絶され
ると、彼らは尊敬されるようになり、その後は強大で安全で名誉ある幸福な状態が続く
でしょう。

 こうした偉大な事例にやや劣る一事例を加えておきましょう。やや劣るとはいっても
そうした偉大な事例に似たところがあり、私は同様の事例すべてを十分代表するよう加
えておきたいのです。それはシラクサのヒエロン[7]の事例です。この人は一私人の境
遇からシラクサの王に成り上ったのですが、好機以外には運命の恩恵は受けませんでし
た。というのは、抑圧されていたシラクサ人は彼を自分たちの指揮者としたのであり、
その後、その見返りとして自分たちの王としたのですから。彼は一私人としても大層な
才能があり、彼について書いた人は、王として欠けていたのは王国だけだったと述べて
います。この人は古い軍制を廃止して新しい軍制を組織し、旧来の同盟を断って、新し
い同盟関係を樹立しました。そして自分の軍隊と同盟者を手に入れると、こうした基盤
の上に大建造物を築くことができたのです。このように彼は王国を得るには多くの苦労
に耐えましたが、それを維持するにはほとんど苦労知らずでした。

英訳の注
[7] ヒエロン二世、およそ紀元前307年生、紀元前216年没。

第7章 他人の軍隊か幸運かによって獲得されて新しい君主国について

ただ幸運によってだけ私的な市民から君主となった者は、労せずに成り上がったので
すが、頂点に留まり続けるには多難を極めるでしょう。彼らは突然その地位についたの
だから、登りつめる道すがらにはなんの困難もなかったのですが、頂上にたどりつくと
多くの困難が待ち受けているのです。どこかの国家を金銭と引き換えで、あるいは譲ろ
うという人の好意で手に入れた人たちも同様です。それはギリシアではイオニアやヘレ
スポントスの多くの都市で起こったことでした。その都市の君主はダリウスよってその
地位についたのですが、それはダリウスの安全と栄光のためにその都市を維持させるた
めでした。また兵士の腐敗によって市民から皇帝になった場合も同様でした。こうした
ことは彼らを登用した者の善意と幸運に依拠しているだけですが、この二つはもっとも
変りやすく不安定なものなのです。彼らはその地位に必要な知識を持ち合わせてはいま
せん。なぜなら、よほどの資産と才能に恵まれていなければ、ずっと私人の状態で暮し
てきたのに、命令のし方を知っていると期待するのが無理というものですから。また、
彼らは味方となり忠実でありつづけるような手勢を持っていないので、その地位を保持
することもできないのです。
 思いがけず勃興する国家というものは、自然界の生れてはたちまち成長する他の事物
と同様、しっかりした土台もなく、最初の嵐で転覆されないような安定した国家とは似
たところもないのです。[ここに英訳注8があったのですが、省略しました。]言った
ように、予期せず君主となった人たちが才能に恵まれていないかぎり、幸運がその膝に
投げてくれたものを直ちにつかむだけの用意もなく、また彼が君主となる以前に他人が
しつらえてれた土台を、後になって築かざるをえなくなるのです。
 才能によるか、幸運によるかという君主に成り上るこの二つの方法に関して、記憶の
中から二つの事例を挙げておこうと思います。それは、フランチェスコ・スフォルツァ
[9]とチェザーレ・ボルジアの例です。フランチェスコは、適切な手段と大きな才能に
よって、一私人からミラノ公に成り上ったのですが、彼は獲得するのに幾多の苦心を重
ねたのに、維持するにはほとんど苦労しませんでした。一方チェザーレ・ボルジアは、
人々からはヴァレンティノ公と呼ばれましたが、父親の隆盛によってその国家を獲得し、
父親が没落するとそれを失ないました。そうではあるけれど、他人の軍隊や運が彼に授
けてくれた国家に根をしっかり張るために、あらゆる手立てを尽し、賢明で有能な人物
がなすべきことをすべて行なったのです。
 なぜなら、前に述べたように、最初は基盤を築いていなかった者も、大きな才能があ
れば後から基盤を築くことができるでしょうから。しかし、建築家は苦労をしょいこみ、
建物には危険が伴うことになるでしょう。ですから、公のとったすべての道程を考察す
るなら、その将来の権力のための確固たる基盤を築くものであったことがわかるでしょ
う。私はそのことを議論するのが不必要なことだとは思いません。なぜなら、その行動
という実例以上に、新しい君主に与える優れた教訓というものを、私は知らないのです
から。そして、彼の手配がなんら役に立たなかったとしたら、それは彼の落度というよ
り、運命の尋常ならざる極端な悪意のせいなのです。

アレクサンデル六世がその息子の公を強大にしようとしたとき、当面のまた将来の数
多くの困難を抱えていました。まず第一に、彼を教会領以外の国家の主にする道はあり
ませんでしたが、もしすすんで教会領を奪おうとすれば、ミラノ公やヴェネツィア人が
同意しないのはわかっていました。というのは、ファエンツァとリミニはすでにヴェネ
ツィア人の保護下にあったからです。そのうえ、イタリアの軍隊、特に援軍としたい軍
隊は、教皇が強大化になるのを恐れる者たち、つまりオルシーニ家とコロンナ家、その
追従者の手に握られていました。だから、こうした情勢を覆し、諸勢力を紛糾させて、
その国家の一部を確実に支配下に置くことは、当然のことであったのです。これは彼に
とって、たやすいことでした。というのは、ヴェネツィア人たちは、別の理由に突き動
かされて、フランス軍をイタリアに呼び戻そうとしていたからです。彼はこれに反対し
なかっただけでなく、ルイ王の前の婚姻を解消することで、それをいっそう容易にしま
した。それで、ヴェネツィア人の支援とアレクサンデルの同意のもとに、王はイタリア
に侵入したのです。王がミラノに入るや、教皇はロマーニャ攻略のための兵を王から借
り受け、王の威信のもとロマーニャは教皇に屈っしました。こうして、公はロマーニャ
を獲得し、コロンナ家を打倒し、ロマーニャを保持してさらに歩を進めようとしました
が、二つのことがそれを邪魔したのです。一つはその手勢が彼に忠実でないように思え
たこと、もう一つはフランスの意志でした。つまり、それまで使ってきたオルシーニ家
の手勢が彼の味方とならず、彼がそれ以上勝利するのを阻むばかりか、彼が勝ち得たも
のを簒奪しようとし、また王も同様であることを、公は恐れたのです。オルシーニ家に
ついては、ファエンツァを得た後、ボローニャを攻撃したとき、彼らがいやいや攻撃に
赴いていることが判ったとき、警戒心を抱きました。また王については、ウルビーノ公
国を得た後、トスカーナを攻撃したとき、王がその企図を思い留めようとして、その腹
積りを悟ったのです。そこで、公はもはや他人の軍隊や運に頼るまいと決心しました。
 まず手始めに、彼はオルシーニ党とコロンナ党の支持者の貴紳を自分の側へ引き入れ、
自分の貴紳とし、よい報酬を与え、その地位にしたがって、文官や武官として厚遇し、
こうして数ヶ月のうちには、両党派のとりまきは切り崩され、完全に公の側に寝返った
のです。これによって公はローマにおける両党を弱体化したのでした。こののち公は、
コロンナ家の支持者を追い散らしてしまうと、オルシーニ家を壊滅する機会を待ちまし
た。その機会はすぐに訪れ、公はその機会を巧みに利用しました。というのは、オルシ
ーニ家は、公や教会の強大化は自分たちの滅亡であることにやっと気づくと、ペルージャ領内の
マジョーネに会したからです。このことから、公にたいする際限のない危難と
なった、ウルビーノの反乱やロマーニャの騒乱が起きたのですが、公はフランスの助力
でこれに打ち勝ったのです。公はその権力を回復すると、フランスやその他の外国の勢
力を信用して危険にさらされないよう、策謀をめぐらせましたが、その考えをうまく隠
したので、パオロ・オルシーニ卿の仲介―公はそれを確かなものとするため彼に金銭、
衣裳、馬を贈った―によって、オルシーニ家は和解し、その単純さから、シニガリアで
公の手のうちに落ちたのでした[10]。

その領袖たちを皆殺しにし、その一味の者を味方として、公は十分に確固とした権力基盤を築いて、ロマーニャ全土とウルビーノ公国を手に入れたのでした。そして今や人々がその繁栄を謳歌しはじめると、公は完全に彼らを味方につけたのでした。この点は注目に値することで、他の人もまねるべきところであり、私は無視するわけにはいかないのです。
 公がロマーニャを領有してみると、そこが意志の薄弱な支配者のもとにあったことを
悟りました。その支配者たちは臣民を支配するのでなくて収奪し、その団結をはかるど
ころか分断の種をまき、国中に強盗や諍い、ありとあらゆる暴力沙汰がはびこっていた
のです。そこで公は平和と権威への服従を取り戻そうと思い、優れた総督を送り込むこ
とが必要だと考えました。そこでラミロ・ドルコル卿[11]という敏速で残忍な男を登
用し、全権を委ねたのです。この男はたちまち首尾上々に平和と統一を回復しました。
その後、公はこのような過度の権限を与えるのは賢明ではないと考えました。というの
は、憎まれるのではないかという疑いをもったからです。そこで国内にもっとも優れた
裁判長のもとに裁判所を設置し、そこに全都市がその弁護人を置くようにしました。そ
して、過去の苛烈が公自身にたいする恨みを引き起こしているのを知ったので、人々の
心のうちで公自身を清廉なものにし、人々を完全に自分が取り込むために、残忍なこと
が行われたとすれば、自分に原因があるのではなく、代官の厳格な気性のせいだという
ことを示そうと望んだのです。この口実でラミロを捕え、ある朝、彼を処刑して、木片
と血塗りのナイフを傍らに置いて、チェゼーナの辻に晒しました。この残忍な光景に、
人々は直ちに満足するとともに狼狽したのでした。
 さて、私たちの出発点に立ち戻ってみましょう。公は今や十分に強力となり、それな
りに自分の軍備を整えることで、ある程度は目の前の危難から安全となり、彼に損害を
与えるような近隣の諸勢力はあらかた粉砕したので、彼がさらに征服の歩を進めたけれ
ば、次に考慮すべきなのはフランスのことでした。というのは、フランス王は自分の過
ちに気付くのがあまりに遅すぎたのですが、もう公を支援しないことは、公にはわかっ
ていたからです。そこでこれ以降、公は新しい同盟者を捜しはじめ、ガエタを包囲した
スペイン軍に対抗してフランスがナポリ王国へ遠征したさいには、フランスにたいして
日和見を決めこんだのです。公の意図はフランスから我が身を守ることでした。もしア
レクサンデルが生きてさえいれば、このことはたちまち達成できたことでしょう。
 これが当面の事態にたいする彼の方針だったのです。しか将来にたいしては、彼は、
そもそも、教会の新しい後継者が彼に友好的でなく、アレクサンデルが与えてくれたも
のを取り上げるのではないかと恐れざるをえませんでした。そこで次の四つのやりかた
で行動しようと決断しました。第一は、これまで略奪してきた領主に一族を根絶やしに
して、教皇に口実を与えないようにすることでした。第二には、もう見たように、ロー
マの貴紳をみんな味方にして、その助力で教皇を抑制できるにようにすることでした。
第三は、聖職者団体をもっと自分寄りに変えることでした。第四には、現教皇が死去す
るまえに、自分の手立てで最初の衝撃に耐えられるようにするため、もっと権力を手に
入れることでした。この四つの事柄のうち、アレクサンデルの死去の時点では、三つが
完了していました。というには、地位を奪われた領主のうち、襲うことのできた大多数
は殺し、難を逃がれたのはわずかだったし、ローマの貴紳は味方につけ、聖職者団体で
は最大派閥を擁していたのです。

そして新しい領土獲得については、トスカーナの主になるつもりでした。というのはもう既にペルジアトピオンビオを得ていたし、ピサは彼の保護下にあったからです。そしてもうフランスのことを気にかける必要がなくなった(なぜなら、フランスはスペイン軍によってナポリ王国から駆逐され、こうしてフランスとスペインの双方とも彼の好意を買わざるをえなかったから)ので、ピサを急襲したのです。この後、一部は憎しみから、また一部はフィレンツェ人にたいする恐れから、ルッカとシエナはすぐに屈っしました。またフィレンツェ人に回復策がなかったら、彼は成功を続けていたでしょう。アレクサンデルの死までは成功してきたように。というのは、彼は大きな権力と名声を得て、自立しており、もはや運や他人の勢力に依らずに、自分の権力と才能だけでやっていけたでしょうに。
 しかし、彼が初めて剣を抜いてから五年のうちにアレクサンデルは死去したのです。
彼が公に残したのは、ロマーニャの国家が唯一確固としたもので、残りは強大な敵軍の
間に無夢散し、それと死に至る病なのでした。けれど、公には途方もない大胆さと才能
があり、どうすれば人を味方につけ敵にまわすか、よくわかっていたし、また極めて短
期のうちに築いた基盤はとても強固なので、こうした敵軍に苦しめられたりせず、健康
であったら、公はあらゆる困難に打ち勝ったことでしょう。わかるように、その基盤は
しっかりしていました。というのは、ロマーニャは一月以上も彼を待ち続けたのです。
ローマで、彼は半死半生でしたが、身の安全は確保されていました。また、バリオーニ
家、ヴィッテリ家、オリシーニ家の者たちがローマに来たとはいえ、彼にたいしてなに
も成しえなかったのです。彼が望む者を教皇にすることはできなかったにしろ、少くと
も望まない者が選出されないようにはできたはずです。アレクサンデル死去[12]の際
に健康な状態にあったなら、すべては彼に都合よくことが運んだことでしょう。ユリウ
ス二世[13]が選出された日に、彼が私に語ったのは、彼の父親が死んだら起こること
はすべて考え、あらゆることに回復策を用意してあったが、実際に父親が死んだときに、
まさか自分自身が死にかけるとは、思いもしなかったということでした。
 公がとった行動をすべて思い返してみると、私には彼を非難すべきところは見当らな
いどころか、これまで述べたように、運と他人の武力で統治者に成り上がった人はみな
彼を見習うよう勧めたいほどです。なぜなら、彼は高邁な精神と広大な目的を抱き、こ
れ以上はやれないほど自分の行為を統御したのですが、ただアレクサンデルの短命と自
分の病によって、その企図を阻まれたのですから。それだから、自分の新しい君主国で
自分自身の身の安全を確保し、味方を増やし、武力か策略で制圧し、自分を人々から敬
愛されるとともに畏怖されるようにし、兵士に従われかつ敬われ、彼を傷つけるだけの
力と理由のある者たちを根絶し、古い制度を新しい制度に変え、苛烈にして慈悲深く、
寛大でかつ気前よくし、不忠の軍隊を解体して新しい軍隊を創設し、王侯君主とは友好
を保って、彼らが熱心に彼を援助し、困らせるにも慎重を期さざるをえないようにする
ことが、必要だと考える人には、この人の行動ほど生きいきとした実例は見つからない
でしょう。

唯一彼がとがめられるのは、ユリウス二世の選出についてだけです。彼は過った選択
をしたのです。なぜなら、言ってきたように、彼の意に沿う教皇を選出できなくても、
それ以外の者が教皇に選出されるのを邪魔することはできたはずですから。それで、彼
が傷つけたことのある枢機卿や教皇になったら彼を恐れる理由のある枢機卿が選出され
ることに、同意すべきではなかったのです。というのも、人が危害を与えるのは、恐怖
か憎悪のどちらかによるからなのです。とりわけても、彼が傷つけた者というのは、サ
ン・ピエトロ・アド・ヴィンクラ、コロンナ、サン・ジョルジョ、アスカニーオでした
[14]。ルーアンとスペイン人以外の他の誰が教皇になっても、彼を恐れたでしょう。
スペイン人はその親族関係と恩義から、ルーアンはフランス王国と彼との関係で、彼の
影響下にあることから、彼を恐れることはなかったのです。だから、公は何よりもまず、
スペイン人の教皇を立てるべきであり、それに失敗したなら、サン・ピエトロ・アド・
ヴィンクラではなく、ルーアンを承諾すべきだったのです。お歴々に新しい恩恵を施せ
ば、古傷を忘れてもらえると信じる者は、欺かれます。こうして、公はその選択を誤り、
それが最終的な破滅の原因となったのです。
英訳の注
[9]フランチェスコ・スフォルツァは1401年生れ、1466年没。彼はミラノ公フィリッポ
・ヴィスコンティの庶出の娘ビアンカ・マリア・ヴィスコンティと結婚し、フィリッポ
の死後、公国の君主になる道を得た。マキャヴェリは、シニガリアでのオルシーニ一族
とヴィッテリの暗殺に至った諸事件の期間、チェザーレ・ボルジア(1478ー1507)のも
とへフィレンツェ共和国の公式代表として赴いており、フィレンツェの上司への手紙と
ともに、『君主』の十年前に書かれた、公の処断の説明を『ヴィッテロッツォ・ヴィッ
テリ等を殺害したさいにヴァレンティノ公がとったやり方についての記述』に残した。
その翻訳はこの本の付録にある。
[10] 1502年12月31日のシニガリアでのこと。
[11] ラミロ・ドルコルはラミロ・デ・ロルカともいう。
[12] アレクサンデル六世は1503年8月18日に熱病で死んだ。
[13] ユリウス二世はサン・ピエトロ・アド・ヴィンクラの枢機卿、ジュリアーノ・デ
ラ・ロヴェーレで、1443年生、1513年没。
[14] ユリウス二世はサン・ピエトロ・アド・ヴィンクラの枢機卿であった。サン・ジ
ョルジョはラファエル・リアクシス、アスカニーオはアスカニーオ・スフォツァ枢機卿
のこと。

第8章 非道によって君主国を獲得した者たちについて

完全に運や才能によるものだとすることのできない二つの方法によって、私人の状態
から君主に成り上がることもあるのですが、これについて口をつぐんでおくべきではな
いのは明かだと思います。とはいえ、そのうち一つについては共和国について論じるさ
いにもっと詳しくあつかうのですが。この方法には、極悪非道なやり方で君主に登りつ
める場合と、同胞市民の好意によってその国の君主になる場合があります。最初の方法
について言えば、一つは古代のもう一つは現代の、二つの事例で説明し、この話題には
これ以上立ち入らないことにします。強いてその真似をしたい人には、この二つの事例
で十分だと思います。
 シシリア人のアガトクレス[15]は、一私人というだけでなく下層の卑しい身分から
シラクサの王となりました。彼は陶工の息子でしたが、その運がどう変ろうと悪評高い
生き方を送ったのです。それにもかかわらず、彼の悪業には心身のすぐれた能力が伴な
っていたので、軍務に身を投ずると、位階を登りつめて、シラクサの法務官となりまし
た。その地位を確保し、自ら君主になり、これまでは同意によって与えられてきたもの
を、他人に恩義も感じずに、暴力で奪い取ろうと慎重に決意を固めると、カルタゴ人の
ハミルカルの合意を取りつけました。このハミルカルは、軍を率いて、シシリアで戦っ
ていたのです。ある朝、彼は、共和国に関わる事柄を討議するかに装って、シラクサの
人民と元老院を召集すると、取り決めておいた合図とともに、兵士が元老院議員と人民
の中でも最も富裕な人々を全員殺しました。こうした人たちが死ぬと、彼は市民の動揺
もなしに、この市の君主の座を奪い取り、居座ったのです。そしてカルタゴ軍によって
二度も敗走させられ、ついには包囲されたにもかかわらず、その市を守りぬいたばかり
か、兵の一部を守りに当らせ、残りを率いてアフリカを攻撃し、短期のうちにシラクサ
の包囲を解かせたのです。カルタゴ軍は窮地に陥り、アガトクレスと和睦せざるをえず、
シシリアは彼に任せて、アフリカの領有で満足するしかなかったのです。
 だから、この人の行動や才能をよく考えてみると、見てきたとおり、彼が傑出したも
のとなったのは、誰かの好意によってではなく、軍務で一段づつ登りつめたことによっ
てであって、その昇進には幾多の困難と危険を伴い、またその後、大胆にも何度も危険
を冒すことによってその地位を守ったのだから、運に帰すべきものは、全くといってい
いほど見当たりません。しかし、同胞を殺戮し、友人を欺き、信義も慈悲も信仰もなか
ったことを、天賦の才ということはできません。こうしたやり方で帝国を得ることはで
きても、栄光は得られないのです。それでも、危険に飛び込んでは逃がれ出るアガトク
レスの勇気を、苦難に耐えながらそれを克服するその精神の偉大さとあわせて、熟考す
れば、彼を傑出した武将より劣ると評価する理由は見当たりません。にもかかわらず、
彼の野蛮な残虐さと際限のない非道を伴った非人情によって、彼を優れた偉人に列する
ことは認めることができないのです。彼の成し遂げたことは、運にも才能にも帰すこと
ができません。

私たちの時代では、アレクサンデル六世の治下に、オリヴェロット・ダ・フェルモが
いますが、彼はずいぶん以前に孤児となり、母方の伯父のジョヴァンニ・フォリアーニ
に養育されました。そして青年時代の初めには、パオロ・ヴィッテリの指導の下で訓練
を積み、その下で戦いにあけくれ、軍務で高い地位を得ようと思ったのでした。パオロ
の死後には、その弟のヴィッテロッツォの下で戦い、極めて短期のうちに、機転と強健
な心身に恵まれていたので、軍の第一人者となったのです。しかし、他人に仕えるのは
つまらないことに思えたので、自分の国が隷属するほうが自由でいるよりましだと思う
フェルモ市民の支援を得て、またヴィッテリの助力により、フェルモを強奪しようと決
心したのです。そこでジョヴァンニ・フォリアーニに、多年にわたり故郷を留守にした
が、伯父とその市を訪問し、家督がどれほどが見ておきたいと、手紙を書き送りました。
さらに、苦労してきたのは名誉を手に入れるためだけであったが、市民に無駄に時を送
ったのではないことを知ってもらうため、百騎の騎兵と友人、家臣を引き連れて、故郷
に錦を飾りたい。そして、ジョヴァンニにはフェルモの市民に丁重に迎えるよう取り計
らい願いたい。そうすれば自分の栄誉となるだけでなく、育ての親のジョヴァンニの栄
誉ともなるのだから、と書き記したのでした。
 それで、ジョヴァンニは甥のために準備万端手抜かりなく整え、フェルモ人に丁重に
迎えさせました。オリヴェロットは、自分の家に投宿して、数日を送り、その非道な計
画に必要なことが整うと、盛大な宴会を開いて、ジョヴァンニ・フォリアーニやフェル
モの指導者たちを招待したのです。ご馳走もそうした宴会につきものの余興が終ると、
オリヴェロットは巧みに深刻な話題をしはじめ、教皇アレクサンデルとその息子チェザ
ーレ、ならびにその事業の偉大さについて語り、その話題にジョヴァンニや他の者たち
が反論すると、彼はやにわに立ち上がり、こういう事項はもっと私的な場所でするべき
だと言って、一室に入っていったので、ジョヴァンニやその他の市民は彼の後に続きま
した。彼らが席につくや、秘密の場所から兵士は現われて、ジョヴァンニやその他の者
を殺戮しました。この殺人の後、オリヴェッテロは馬に乗って、町中を駆けめぐり、主
席政務官を宮殿に閉じ込め、それで人々は恐怖のあまり彼に服従せざるをえず、彼を君
主とする政府を作るしかなかったのです。彼は自分を傷つけることのできる不満分子を
すべて殺し、新しい民事法令や軍事法令で自分を強化し、こうして、彼が君主であった
一年間は、彼はフェルモの市で身の安全を確保したばかりか、近隣諸国から恐れられる
存在となりました。チェザーレ・ボルジアに出し抜かれたりしなければ、アガトクレス
と同様、彼を滅ぼすのは困難でした。チェザーレは、前述の通り、彼をオルシーニ家や
ヴィッテリとともにシニガリアで捕えたのです。こうして父殺しを犯してから一年後、
彼の武勇と非道の師であったヴィッテロッツォとともに、縊り殺されたのです。

アガトクレスやその同類は、数えきれない裏切りと残虐の後、その国で長きにわたっ
てその身を守り、外敵から自分を防衛し、その同胞市民から陰謀を企てられることがな
かったのに、他の多くの者たちが、残虐な手段をつかいながら、平時においてすら国を
保持できず、戦時の不確かな時代にはまして国を保持できなかったのは、どうして生じ
るのか不思議に思う人もいることでしょう。私が思うに、残酷さ[16]を誤って使うか、
適切に使うかによるのです。悪事に適切という言葉を使うのが妥当だとして、適切に使
うというのは、一挙に行なわれ、しかもだれかの身の安全上に必要である場合であって、
臣民の利益にならないかぎりは、その後繰り返されることはないという使い方なのです。
誤った使い方は、最初はわずかであったにもかかわらず、回を重ねるごとに、おさまる
どころかひどくなるような使い方です。最初のやり方を行なった者は、神か人の助けに
よって、アガトクレスと同じように、ある程度まで自分の支配の苛烈さを和らげること
ができますが、もう一つのやり方にしたがう者は、自らを保つことができません。
 したがって、国家を強奪するにさいしては、強奪者は加える危害が必要なものか綿密
に検証し、そうした危害を日常的に繰り返さなくてすむよう、一撃で事を済まさなけれ
ばならないということに、注意をはらっておくべきです。そうすれば、人々に動揺を与
えないことで、彼らを安心させ、恩恵で彼らを味方につけることができるのです。臆病
や有害な助言から、そうでないやり方をすれば、いつも剣を握りしめておかなければな
らなくなり、絶え間なく何度も悪事を繰り返すために、臣民を信頼することも、臣民に
慕われることもできません。というのは、危害を加えるのは一挙に済ますべきで、そう
することで、味合うのが少ければ、不快な思いをするのも少くなるのだから。また恩恵
は少しづつ与えるべきで、そうすることで、その香気は長く残るでしょうから。
 そしてなによりも、良きにつけ悪きにつけ、予期せぬ状況が起こっても変わることの
ないよう、その人民とともに暮すべきです。なぜなら、騒乱の時代にこうしたことが必
要となれば、苛酷な施策をとるには遅すぎるし、寛大な施策も、やむなく出したものと
考えられて、役に立たず、そのために、恩義を感じる者はだれもいないのですから。
英訳の注
[15] シシリア人アガトクレスは、紀元前361生、紀元前289年没。
[16] バード氏の言うところでは、この語(英訳では"severities")の意味はおそらく、マ
キャヴェリが"crudelta"と言うときに考えているものの現代的な相当語のほうが、もっ
と明らさまな"cruelties"という語よりも、近い。

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